在外研究ならでは。


妻は、明日から大学の生涯学習センターでの授業が始まるため、早めに就寝。僕もいよいよ明日からは本格的に研究関係の仕事に取り組めるので、その下準備。その中でたまたま「読んでおこうか」と思った論稿にすっかり心を奪われてしまい、僕も早めに寝るつもりだったのがいつの間にか28:30(苦笑)。


それはなんの論稿かというと、公益財団法人吉田秀雄記念事業財団の研究広報誌である『アド・スタディーズ』に関西大学の水野由多加先生が投稿された「幸せのために「広告に求められること」とは」というタイトルの文章(pdfファイルはこちらから入手できます)*1。肩の力の抜けた平易な文章ではあるが、なんというか、心を揺さぶれた。


水野先生とは昨年上梓した『広告コミュニケーション研究ハンドブック』で編集をご一緒させていただいた。先々代の日本広告学会関西部会運営委員長であり*2、現在は同学会の副会長。昨年はサバティカルに出ておられた先生のゼミを僕が担当するなど、因縁浅からぬ関係(笑)。そんな先生が「この10年余の自分のやってきたことを整理したような一篇」とFacebookに書いておられたので、読まなきゃなぁと思っていたものを、今日ようやく読むことにして、そして心をぐっと掴まれた次第。


広告コミュニケーション研究ハンドブック (有斐閣ブックス)

広告コミュニケーション研究ハンドブック (有斐閣ブックス)

↑ 刊行後まもなく1年が経ちますが、いまだにいろいろな方からお褒めをいただきます。 ↑


先生がおっしゃる通り、「広告はよいもの」というのが、多くの広告実務家の、そして広告研究者の、暗黙の前提であるように思う。それを「紺屋の白袴」であると喝破するいつものスタイルは爽快感すら感じる。記述的な表現にとどまらない、理論志向の文章の運びにもいつも感銘を受ける。そしてなにより感じたのは、「コミュニケーションで社会に価値を打ち立てる広告は万に一つすらない」*3というのは、まさに自身が感じる感覚であり、これを鮮やかに言語化して見せてくださったということ。非実務家出身で、水野先生より20も若い僕こそがこのことを言語化せねばならないのにとの悔しさもありつつも、そうだよなぁとただただ首肯するばかり。


で、そこから考えたこと。


それは、広告研究は、この発想をベースにおきながら進めないと、研究の発展という意味でも実務への貢献という意味でも、意味がないよなぁ、ということ。たとえば広告効果の議論にしても、世の中に掃いて捨てるほどある「無価値な広告」*4が「無価値」であることには目もくれず、万が一程度の確率でしか表れない素晴らしい広告を例に挙げて考察するものや、「無価値」であることを捨象した学生サンプルでの実験に基づくものが多い*5。ないしは、社会の役に立つのか立たないのかなんて気にも留めず*6、効果さえ計れればいいというものも散見される。それで本当にいいの?ということ。


実は、上に掲載した『広告コミュニケーション研究ハンドブック』を作るというプロジェクトに参加するにあたっての、僕の個人的な動機がまさにこういう点だった。もう第一線から退かれた、僕も大変にお世話になった学界の重鎮の某先生が、「すべての広告研究は広告効果研究である」というような趣旨のことを論文に書いておられるのを読んで、「はぁ?」と思ったのが院生時代のことか。この発想だと僕の研究テーマである「広告会社の戦略や組織」に関する研究*7は広告研究ではなくなるという、言うなれば「自己保身」の考えから思ったということもあるが*8、そもそもどんな広告の広告効果でもいいのかということに答えようとしていないではないか、という思いが確かにそこにはあった。


うちの師匠*9は、よく、「目の前のテーマのことだけではなく、社会全体を視野に入れていることが行間から滲み出るような論文を書きなさい」と言っていた。僕は今回の在外研究で「コミュニケーション専門職の人材育成」というテーマに(主に)取り組んでいるけれども、これも、コミュニケーション専門職の人材育成が「正しい」方法でなされれば、社会におけるコミュニケーション活動は「よりよくなる」であろうし、そのことは社会が「よりよくなる」ことに繋がるであろう、というのが、無邪気ではあるが、前提となっている*10。今回の水野先生の問題提起は、まさに、うちの師匠の言うところの「社会全体を視野に入れた研究ができているのか」という問いに繋がるものであると思う。もちろん、水野先生ほど直接的に問わなくてもいいかもしれないけれども、行間からそのことが滲み出るかどうかは、この研究分野が今後どうなるかという観点から、とても大事なことではないかと思う*11


そもそもうちの師匠は、「経営学はお金儲けのための学問だとよく言われるけれども、そうではない。人が如何にすれば幸せに生きられるかを考える学問なのだ」と言っていて、僕もこの考え方に全面的に賛同している。経営学は、と言ってはいるけれども、少なくとも隣接領域のいろいろな学問は、この発想がないとダメだという思いもある。だからこそキャリア教育にも熱を入れているし、スポーツの社会的価値についての研究もしているし、ゼミにも(おそらくは)人並みを遙かに超えた愛情を注いでいる*12。ゼミ生を就活に送り出すときや卒業式後の謝恩会なんかでよく言うのは、「自分と、会社と、そして社会が幸せになるような、そんな仕事をしてください」ということ。僕はこの仕事を通じて、社会が少しでもよくなればいい、人が少しでも幸せに生きられればいい、そういう状態を作り出したいと思っているんだということに、今回の論稿があらためて気づかせてくれたと思っている。


在外研究に出ていなくてもこの論稿は必ず目にしただろうとは思う。でも、比較的時間に余裕がある在外研究先で読んだからこそ、いろいろなことを派生させて(「横展開」して?)考えることができたし、そもそもの研究の原点を思い出すことができたし*13、なによりそのことをこうやって言語化して表現することができた。この、5時間ほどの経験だけでも、在外研究1ヶ月分くらいの価値はあるんじゃないかなと、わりと本気で思う。


がんばって研究せねばです。

今日はこんな日。
  • Yさん博論提出締め切り日
  • 授業見学向けリスト作成
  • 4ヶ所ぐるぐる(Fashion Valley、Target、Trader Joe's、Ralph)
  • サンダル入手、妻はヨガマット入手
  • 電池の値段の高さにびっくり(そして、当たり前のように、少数では売っていない)
  • 11/5のハワイ大学戦も参戦決定、こちらは妻も同行
  • ケーブルテレビで音楽を聴く(仕事をしている間のBGM/70sが楽しくて仕方がない)
今日のごはん。
  • 昼:家=おにぎり
  • 夜:家=ティラピアのトマト煮込み

*1:エッセイというには重すぎるし、かといって論文ではない。

*2:現・運営委員長は僕が務めているが(この10月から)、就任と同時に在外研究に出たため、現在はYさんに代行をお願いしている。

*3:本文ママではなく、若干意訳気味。

*4:水野流に言えば「広告未然」のもの。

*5:単位で釣られれば、そりゃあ、それなりのことを書くでしょう。普段そんなことなんてちっとも思ってなかったとしても。

*6:広告主や、広告会社や、メディアの役に立つかどうかは、考えられている場合が多いように思わなくはない。

*7:今は広報も視野に入れて研究しているので、研究対象は広告会社とは限らない。コミュニケーション主体側の話ももちろんあるし。

*8:実は、自己保身、と簡単には言い切れない。それは、広告研究の本質としての学際性を感じてという意味がそこには込められているからであり、『ハンドブック』制作時にはどちらかというとこの学際性の観点を前面に出して執筆者選考と編集にあたった。関西を拠点とする研究者にこだわったのも、他の意味合いもあるけど、この意味合いが大きい。

*9:赤岡功先生。

*10:それが論文の表現にちゃんと反映できているかは、また別の問題。できているといいなぁ。

*11:そして、こういう議論を、妹尾先生も交えて、またしたかった。本当に早すぎるし、急すぎる。

*12:注がれている方はたまったものじゃないかもしれないけど。

*13:いや、別に忘れていたわけではないんやけどね。