実感のなさ。


別に在外研究に限った話ではないんやけど、僕はどうにも「実感が湧く」という感覚に乏しい気がする。在外研究に出る直前に辞令をもらう儀式(?)があったけど、それもその部屋に入るギリギリ手前まで軽口を叩きまくっていた*1。出発する数日前には、義理の両親と、また実の両親と、それぞれごはんを食べに行ったけど、それとて普段の「家族でのごはん会」以上のなにものでもなかった。いろいろな仲間が壮行会を開いてくれたけど*2、またゼミ生がいろいろな記念品をくれたけれども、嬉しいとは思うし有り難いとは思うけれども、これで1年間会えないのか寂しくなるなぁ哀しいなぁ、という実感は湧かなかった。


もちろん、これから1年間アメリカかぁ、不安だなぁ、どうしようかなぁ、などといった感情もほぼほぼ湧かない。諸々の手続きが面倒だなぁとは思うけど、基本的には淡々としたもの。普段の出張と変わらないという印象かもしれない。


これは、冒頭に書いた通り在外研究に限った話ではなく、「誰かが死んだときでないと更新しない」このブログに何が書かれているかが如実に示しているように、どうもある種の僕の特性であるようにも思われる。学会報告の前に緊張するということもないし、ゼミ生が主催するイベント前日の夜は寝られないということもない。年をとってきたからか少し涙脆くなってしまってきているけれども、人前で涙を見せるのには大きな抵抗がある。なぜこんな、ある意味では「冷徹な」人間になってしまったのか*3


いくつか理由はある気がするけれども、大きくは、自身を(社会)科学者として措定しようとしているからではないかなぁ……と思う。冷静に、論理的でいたいという願望。願望というよりはむしろ(もはや?)強迫観念に近いようなものかもしれない。そこにこそ自身の存在意義を見出したいし、そこにしか自身の存在意義を見出せていないからかもしれない。


僕は(0から1を生み出すという意味での)クリエイタータイプではなく、(1を2や3に増やしたり、aやbに変えたりするという意味での)プロデューサー、あるいはエディタータイプの人間であるという自覚がある。その意味では「新しいなにかを生み出す」ことを求められる研究者としては致命的なのかもしれない。量がいつか質をもたらすのであれば、量で自身の非才をカバーすればいいのだが、あるいは質を高める工夫をすればいいのだが、近年はどうもあさっての方向に走って行ってしまっている気もする*4。ただ、研究者としてそれなりに功成り名遂げたいという強い願望もある。そこを、どうするか。


そういえば、好きな英単語の1つに cool がある。涼しいのももちろん好きだけれども*5、カッコいい、ないしは冷静という意味での cool が、なんともいえず好きなんだよなぁ。


でも cool でいられなかったことに、いい思い出もあったりして。高校2年生の冬、渾身の「銀河鉄道の夜」が先に進めなかったことを受けての冬、終わってからの楽屋。あれ。違ったっけ。でも、あの楽屋の思い出は、一生もの。

今日はこんな日。
  • 新居の契約
  • IKEA
今日のごはん。
  • 昼:Corner Bakery Cafe=サラダとスープ
  • 夜:Lazy Dog=牛肉の煮込みと大量のマッシュポテト

*1:さすがに辞令をもらう瞬間は神妙な感じを演出していたけど。部屋に入る前の軽口が中のお偉方にも筒抜けだっただろうことに気づいたのは辞令をもらってから。

*2:予定が合わずに泣く泣く断ったものも。案外愛されてるんだなぁ、という実感は湧いた(笑)。

*3:その一方で「アツい」と称されることも多々あり、一体どういうことなのか、本人も理解に苦しむときが(苦笑)。

*4:学内行政なんて、それの最たるもの

*5:僕に会ったことがある方なら、暑いのが苦手なのはみなさんわかっていただけるはず(苦笑)。