相槌を打つということ。


今日はなんだか寝てばかりで過ごしていて、もういっそのことこのまま「積極的主体的に」だらだら過ごしてやろうか……とか思いつつ、夕食後も本を読んだり。


旅する力―深夜特急ノート

旅する力―深夜特急ノート


今年になって文庫版も出たらしいのだが、少し前に(といっても半年ほど前かな)なぜか雑貨屋さんで出会い、別の商品の会計を済ませていたのにもかかわらず再度レジに並び、そのくせここまでほったらかしで手をつけてこなかった本を読む。


有名な、そして、僕自身のfavoriteでもある『深夜特急』の著者による、深夜特急前後のことも含めて記したエッセイ。夕食後に読み始めたのだが、今のところ一気に読み進んでいる。で、いろいろと思うところがあったので、少し吐きだしてみようと、ブログを書いている次第。


僕には一人旅は無理だと思う。(おそらくは極度の)寂しがり屋なので、一人でいることに耐えられないかもしれない。前準備をきっちりした上で想定外の出来事を楽しむという信条からすると、ガイドブックを読まずにその街に行くこともできない気がする。これまでの経験である程度の勇気と度胸は身についているとはいえ、見知らぬ街で見知らぬ人と交流することなんてできるのかしらと、今この瞬間も自分の「情けなさ」に恥じ入ってしまう。そして一番大事なことは、僕自身の心の甘さ。一人で旅をするということは、いやでも自分自身と向き合うことを余儀なくされる。沢木耕太郎の場合はそれは乗り合いバスの車中での日常であったはずで、僕にはそれが1年間も続けられるとは到底思えない。


だからというか、逆にというか、僕にとっては「相手」がとても大事だという気がする。僕は基本的に知識や思索が浅いままであってもとりあえず話しまくる人なので、しかもそのくせ相手が僕の話に興味を持ってくれていないとわかると自身の不甲斐なさにしょぼくれてしまう方なので、相手が相槌を打ってくれるかどうか、笑顔ないしは興味津々といった表情で話を聞いてくれているかどうかということが、とても気になってしまう。僕は「タイプの人はどんな人?」と訊かれたときに、必ず、「僕と会話ができる人」と答えているのだけれども、それは僕と同レベルで同等の知識を持って話すということを意味するのではなくて、前向きな相槌を打ってくれるということを意味しているのだと自分では感じている。だから、僕のことをそれほど知らない人に言わせると「そんなん誰でも会話できるし、現にできてるじゃない」となるし、親友に言わせると「そんな難しい条件を掲げているようでは、おまえには嫁は一生やってこない」となってしまう。


で、なんでこんなことを書き始めたかというと、僕の尊敬するHさんをはじめ、僕のまわりにはブログを書いている人がたくさんいるのだけれども(Hさんはブログを書いているどころかブログを日本に持ってきた人だったりするのだけれども)、そして現代は個々人が発信メディアを持っている時代だ、ソーシャルだ、なんて言われているのだけれども、そして僕もブログをはじめtwitterfacebookmixiといったソーシャル・メディアを愛用してはいるけれども、自分の発言に対して相槌がないことにとても落ち込んでしまうこの僕の性格はどうなんだろうと思っているからだ。僕が悪いわけでもないし、性格を変えなければならないという話でもないし、だからこの文章を読んだ人は必ずコメント欄になにか書き込めと言いたいわけでもない。特に最後の項目は、全くもってそんなことを思ってはいない。ただ、寂しくなって、やっぱり気が萎えるのだ。人は書きたいことや話したいことがあるから表現するのだ、それがブログという形で結実しているのだ、と人は言うけれども、反応がないのに書き続けることができるというのはどういう心持ちなのかが僕には全く理解できない、それだけのことなのだ。僕が強くないだけと言えばそれで済んでしまう話ではあるが、とはいえ、他の人がどう思っているのかはとても興味がある。多くの人の反応がほしいわけではなく限られた人からの反応でもいいのかもしれないし、いやいや市民全体の論争を引き起こしたいという人もいるだろう。僕が飲み会が好きなのは、たぶん、相手がそこにいるからだと思うし、「おもしろい」飲み会(「おもしろく」なる確率の高い飲み会としては、例えば、親友との飲みや、ITクチコミ研究会の飲み会なんかがある)とそうでない飲み会を分けるのも、やはり相手がいるかどうかなのだと思う。


学生たちに「黙っているというのは、たとえいろいろ考えているが言葉にできないでいるだけだったとしても、何も考えずにぼんやりそこにいるだけの無能なやつだと思われる」という話をすることがままある。これは仕事の上の話(学生たちにとってはゼミの時間においての話)であるだけでなく、私生活においてもそうだと、僕は思っている。友達との関係だって、親友との関係だって、男女の関係だって、恋人同士の関係だって、夫婦間の関係だって、言葉に出さないと伝わらないものがそこにはあるように思う。コンテクストの共有なんて、ないようであるけれども(実際、阿吽の呼吸は存在すると思うけれども)、でも、あるようでないものだとも思う。だから僕は、「言語化能力」の高い人に憧れるし、興味もある。自分にとって気に入った相手が「言語化能力」のそれほど高い人でない場合は、そのことに(自分勝手に)苛まれることになる。


あぁ、まとまりがつかない(苦笑)。ただ、こういうことを表明してしまってよかったのだろうかという、ある種の疑念だけは心にある。そのことはちゃんと記しておきたい。沢木耕太郎にそそのかされて書いてしまっているだけなんだよ、ということを(苦笑)。


(あえて普段の改行スタイルから変えてみました……どちらがいいかしらん)